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〇2018年4月8日に平津豊のミステリースポットに掲載していた論文を、2025年8月4日に平津豊のイワクラ研究サイトに転載。
2018年2月24日、イワクラ学会の中山寺イワクラツアーが19名の参加で行われた。
案内は徳平尚彦氏である。
私が宝塚の中山寺を訪れたのは、記憶もままならぬ幼い頃以来である。
【中山寺】Photograph 2018.2.24
中山寺のホームページでは、聖徳太子が創建した最初の観音霊場である。とあっさりと説明されているだけであるが、昔は、聖徳太子が大仲姫のお告げによってこの山を開き、悲運の忍熊皇子の鎮魂供養のため、また逆臣物部守屋の障りを除くために中山寺を建立されたと説明されていたようである(北緯34度49分16.23秒、東経135度22分03.79秒)。
それに関係のある石の唐櫃(からと)と呼ばれた白鳥塚古墳が中山寺の境内にある。石室の中には6つの縄かけ突起が付いた家形石棺が置かれ、竜山石で造られている。
社伝では、第14代仲哀天皇(192~200年)の妃の大仲姫の墳墓とされているが、古墳の建造は6世紀後半から7世紀前半と推定されており、大仲姫の時代とは合わないのでこの墓は大仲姫の墳墓ではないであろう。年代的には物部守屋が戦死した587年に近く、この宝塚の一帯に物部氏一族の若湯坐(わかゆえ)連が居住しており、その祖神の意富売布命(おおめふ)を祀る売布(めふ)神社があることから、この古墳には物部氏の首長級の人物が葬られていたのではないかと考えられる。そうすると聖徳太子が物部守屋の祟りを恐れて鎮魂するために、この古墳の側に中山寺を建立したという説が現実味を帯びてくる。
【白鳥塚古墳】Photograph 2018.2.24
ちなみに、中山寺は安産祈願で有名であり、境内にエスカレーターが設置されるほど繁盛しているのであるが、その由縁は、多田城主の源行綱の妻が不信心であったので、中山寺のご本尊が鐘の緒をもって戒め、その鐘の緒が女性の大役である出産の無事安泰を守っているというものである。素直に納得できるような由縁ではない。それよりも物部氏一族の若湯坐連は、産児の皇子女に湯をつかわせる役目の物部氏族である。
この若湯坐連の売布神社の方が安産祈願にふさわしい。中山寺は、この売布神社の直ぐ側に後から建立されている。神仏習合によって、仏教が神社を乗っ取っていった一例であろう。
この後、夫婦岩に到着するまで、登山道の脇の面白い岩石を見ながら登った。
【気になる石組】Photograph 2018.2.24
【気になる石組】Photograph 2018.2.24
【気になる石組】Photograph 2018.2.24
中山寺から1.2キロメートル登ると夫婦岩に到着した(北緯34度49分38.28秒、東経135度21分25.17秒)。
人造と思われる大きな2つの石組みで、磐座に違いない。神奈備氏がブログで指摘しているように、売布神社の奥宮ではないかという推測に賛同する。売布神社の山宮であろう。
時間がなかったため岩石の全ての面の方位を測定できなかったが、少なくとも中心の岩石の一面は300度で、夏至の日の入り方向であった。
岩石の表面には、判別不可能な数多くの線刻があったが、そのほとんどは、僧侶が彫ったお題目や梵字と推測した。しかし、一箇所だけ気になる線刻があり、武部正俊氏と議論したが、古い線刻かもしれない。先史時代の線刻があったとしても不思議ではない磐座であるが、仏教による上書きで判別できなくなっていた。
【夫婦岩】Photograph 2018.2.24
【夫婦岩】Photograph 2018.2.24
【夫婦岩】Photograph 2018.2.24
【夫婦岩】Photograph 2018.2.24
【夫婦岩】Photograph 2018.2.24
【夫婦岩の線刻 ? 】Photograph 2018.2.24
線刻だらけの夫婦岩から400メートル登ると登山道の分岐点に石仏が祀られていた(北緯34度49分51.12秒、東経135度21分18.99秒)。
。石仏の下の岩組みは人工の石組みである。賽の神だったのではないだろうか。
【分岐点の石仏】Photograph 2018.2.24
さらに350メートル登ると厄神明王聖徳太子御修行の地と書かれた岩盤があった(北緯34度49分59.33秒、東経135度21分10.12秒)。その直ぐ側には3つの岩が重なった巨岩があり、中央の岩石に宇多天皇自らが天神を彫ったとされる宇多天皇御自彫天神があった(北緯34度49分59.07秒、東経135度21分08.89秒)。衣冠束帯姿の線刻が見て取れる。他の磨崖仏と同様にイワクラに天神を線刻したものと考えられる。
【厄神明王聖徳太子御修行の地】Photograph 2018.2.24
【宇多天皇御自彫天神】Photograph 2018.2.24
150メートル登ると中山寺の奥之院に到着した。中山寺から2.1キロメートル登ってきたことになる。
朱塗りの真新しい寺院の西側に白鳥石が祀られていて、その下から清水が湧き出ている。白鳥石は、白鳥塚古墳から白鳥となって飛び立った忍熊王の御魂がこの石の中に消え、その時に湧き出した水が大悲水とされる伝説のイワクラである。
しかし、寺の説明看板には、そのことには一切触れられておられず、応神天皇の御代に流行り病を治療した清水と説明されているのみであった。この伝承もいずれ消えてしまうのかもしれない。
【中山寺 奥の院】Photograph 2018.2.24
【中山寺 奥の院 白鳥石】Photograph 2018.2.24
奥の院の背後には、三神の窟(いわや)と呼ばれる磐座が鎮座していた。現在は仏教寺院となってしまっているが、本来この場所は、三神の窟を祀る場所であった。三神の窟には、忍熊王と両親の仲哀天皇と大仲姫が祀られている(北緯34度50分01.05秒、東経135度21分03.22秒)。
また、三神の窟の横はコンクリートの壁が造られていて、磐座をよく見ることができない。そのコンクリートは、大事な磐座にまで及んでいる。なぜこのようなことをしているのであろうか、理解に苦しむ。
【三神の窟】Photograph 2018.2.24
三神の窟(いわや)に対応する五神の窟と七神の窟が奥の院の上に鎮座している。
五神の窟の看板には、天照皇大神(てんしょうこうたいじん)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににきのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と書かれていた。「鵜草」の文字が抜けているが、天照と忍穂耳に日向三代を加えて、神武へと続く直系の五神を祀ったものと考えられる。また、白龍大明神の札もかけられていた(北緯34度50分04.75秒、東経135度21分00.66秒)。
【五神の窟】Photograph 2018.2.24
【五神の窟の立石】Photograph 2018.2.24
【五神の窟の直ぐ上の岩】Photograph 2018.2.24
磐座は太い立派な立石である。江頭務氏は、ホームページで保久良神社の三交岩に似ていると指摘しているが、このような斜めの立石について、柳原輝明氏は星を指したものではないかとの独自の理論を展開している。この五神の窟の立石も南に向いた仰角45度なので、柳原氏によると紀元前3500年のベテルギュウスを指している可能性があるということである。
立石の上にある2つの石の隙間は90度であった、春分・秋分の日の出の光が通るスリットかも知れない。
50メートル登ると、七神の窟があった(北緯34度50分06.21秒、東経135度20分59.49秒)。
看板には、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、塗土煮尊(うひぢにのみこと)、沙土煮尊(すひちにのみこと)、大戸之道尊(おおとのじのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と書かれていた。七神ということで神代七代を意味したものと思うが、『日本書紀』における神代七代は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)のひとり神と、泥土煮尊(うひぢにのみこと)・沙土煮尊(すひぢにのみこと)、大戸之道尊(おおとのぢのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)、面足尊 (おもだるのみこと)・惶根尊 (かしこねのみこと)、伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと)の夫婦神をいうので、この看板は、沙土煮尊の代わりに面足尊を入れるべきであろう。また黒八大神の石碑も立っていた。
このような状況を見ると、三神、五神、七神は、日本の縁起の良数である三五七を用いてセットであることを示した名前であり、祀られている神々は後付であり、意味はあまりないのではないかと考えられる。
【七神の窟】Photograph 2018.2.24
【七神の窟】Photograph 2018.2.24
【七神の窟】Photograph 2018.2.24
七神の窟は片面が垂直にきりたった巨大な岩を祀っている。東側の岩の面は真東を向いているので、太陽を反射する鏡岩かもしれない。この鏡岩との間は210度から230度を向いており、さらに幅があるので、夏至の日の出(反対から見ると冬至の日の入り)の光が通る可能性がある。
この直ぐ上が頂上となる。頂上にはストーンサークルと思われる広場があった(北緯34度50分05.94秒、東経135度20分58.14秒)。聖徳太子が「紫の雲こそなびけ行きて見ん吾孫子の峰に神ぞまします」と詠んで登った吾孫子峰である。
【吾孫子峰のストーンサークル】Photograph 2018.2.24
さて、この中山寺のイワクラについては、江頭務氏が『神奈備山磐座群の進化論的考察』イワクラ学会誌9号で、七神の窟(上の神所)、五神の窟(中の神所)、三神の窟(下の神所)が南東の方向に、ほぼ直線的に並んでいることを指摘されている。
この中山寺の磐座祭祀の形態が三輪山の奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の形式を踏襲していることがわかる。
〇2018年4月8日 平津豊のホームページ ミステリースポットに掲載
〇2025年8月4日 平津豊のイワクラ研究サイトに転載
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