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〇2016年8月28日に平津豊のミステリースポットに掲載していた論文を、2025年7月28日に平津豊のイワクラ研究サイトに転載。
「高島・白石島のイワクラ」を「笠岡諸島の高島の磐座」と「笠岡諸島の白石島の磐座」の2つに分けて掲載した。
2016年5月28日、29日に1泊2日のイワクラツアーが行なわれた。
イワクラ学会が、岡山県笠岡市の高島・白石島を訪れるのは、11年ぶりになる。
イワクラ学会では、発足当時にこの高島・白石島に着目し、多くの論文が会報に残っている。これらの論文を参考にしながら、高島と白石島のイワクラについて考察する。
笠岡港で集合し、11時20分発の連絡船で高島に向った。高島港では、高島在住のイワクラ研究家の薮田徳蔵氏と薮田氏を手伝っておられる中村美智恵氏と山口伸治氏が出迎えてくれた。
薮田徳蔵氏は、この高島のイワクラを研究し、説明看板を立てたり、整備されたりしている方である。11年前のイワクラ学会ツアーでも案内していただき、今回も私たちのツアーのために草刈などをしていただいた。薮田氏はご高齢ではあるが、二人の若い方が跡を継いでいただけるのではないかと心強い思いがした。
【高島港】Photograph 2016.5.28
イワクラの話に移る前に、少し高島の事を説明しておく。
岡山県で「高島」というと、「吉備の高島」を連想するのは至極当然のことである。
神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)尊(後の神武天皇)が日向国の高千穂宮から饒速日(にぎはやひ)命が支配する浪速国に攻める途中に立ち寄って、船と兵糧を蓄えたのが「吉備の高島」である。
『日本書紀』には、
「乙卯年の春三月の甲虎の朔己未に、吉備国に徙(うつ)りて入りましき。行館(かりみや)を起(つく)りて居す。是を高嶋宮と曰ふ。三年(みとせ)積る間に、舟檝(ふね)を脩(そろ)へ、兵食(かて)を蓄へて、將に一たび舉げて天下を平けむと欲す。」
『古事記』には、
「阿岐(あき)國の多祁理(たけりの)宮に七年坐しき。またその國より遷り上り幸でまして、吉備の高嶋宮に八年坐しき。」
と書かれている。
神武天皇の滞在期間が、『日本書紀』は3年、『古事記』は8年と異なるものの、両書ともに「吉備の高島」と明記されており、広島から岡山にかけて神武天皇の伝承も数多く残っていることから、この「吉備の高島」は実在するとして、その場所について議論されてきた。
「吉備の高島」の候補地は非常に多く、主なものを挙げると、広島県福山市田尻町字高島の八幡神社、広島県福山市内海町田島の皇森神社、広島県尾道市浦崎町字高山の王太子神社、広島県福山市柳津町の竜王山、広島県尾道市高須町の大元山、岡山県倉敷市児島塩生字高島の産土荒神社、岡山県岡山市中区賞田の高島神社、岡山県岡山市南区宮浦高島の高嶋神社などである。この中で、宮浦の対岸に浮かぶ無人島の高島は、東5キロメートルに五瀬命が滞在した安仁(あに)神社が鎮座しているなど周辺伝承が有力であったため、昭和初期(1938年~1940年)に、文部省が聖蹟伝説地に認定している。
そして、この笠岡の高島も、「吉備高島」の論地の一つである。
高島の沖に浮かぶ明地島から1万数千年前(旧石器時代)の遺物が発見されており、高島にも古くから人が居住していたと考えられる。高島から出土した、石器、土器、貝類などの出土品は、地元の人によって建てられた「おきよ館」に展示されている。出土品と言えば、高島の河田浩二氏の自宅から発見されたイラン製の青銅剣は有名である。なぜこの島に3000年前のイランの耳形柄頭長剣が存在するのか、不思議なことである。
また、この「おきよ」は、神武天皇の妃である興世(おきよ)姫命にちなんで付けられたようだ。興世姫は、『古事記』や『日本書紀』には登場しないが、この興世姫を祀る神島(こうのしま)神社が、高島の北対岸の神島に鎮座している。もともとこの神島神社は、高島の王泊(おうどまり)に鎮座していたという。
神島神社の社伝によると、
「神武天皇は、日向から東征するとき、吉備高島に八年間駐屯後、海上より熊野に至り大和平定後、橿原の地に第1代践祚の大偉業を成す。妃興世姫命は、部下を率いて駐留され天業を扶翼し奉りて此の地に崩す。近郷住民は、高き尊き御神徳を畏み奉りて一大崇敬産土神と斎き奉る。」
と伝わっている。
この高島には、神武天皇が吉凶を占ったとされる神卜山(かみうらやま)、神武天皇が天津神に供える水を取ったとされる真奈井(まない)、神武天皇が船を止めたとされる王泊(おうどまり)、吉備高島行宮の遺跡とされる高島神社などがあり、島民は、この笠岡の高島こそが「吉備の高島」であると主張し、大正八年には、「高島行宮遺阯」と刻んだ高さ8メートルの石の碑が造られている。
話を高島のイワクラに戻す。この島の中央には、「王久(おく)遺跡」とよばれるイワクラ群があり、その「王久遺跡」を中心として東西南北にイワクラ群が存在する。今回のツアーでは、「王久遺跡」と西のイワクラ群を見学した。
高島港から南西に400メートルほど歩くと、巨石が見えてくる。(北緯34度25分38.37秒、東経133度30分09.38秒)
【亀石】Photograph 2016.5.28
【茸石】Photograph 2016.5.28
【陽石】Photograph 2016.5.28
「亀石」、「茸石」、「陽石」と名付けられた巨石を見ながら登ると、見晴らしの良い山の頂上に、大女の子供産み落し伝承の残る「子妊(こはらみ)石」がある(北緯34度25分39.12秒、東経133度30分07.52秒)。巨大な女陰石である。この「子妊石」の前で薮田氏から説明を受けた。
東西幅約6メートル、南北幅約8メートル、高さ約5メートルの「子妊石」は、台座の上に3点のみで接触して据えられていることなど、「子妊石」の構造を詳しく説明していただいた。
【子妊石 北から撮影】Photograph 2016.5.28
【子妊石 南から撮影】Photograph 2016.5.28
【子妊石 女陰部分】Photograph 2016.5.28
【孫姫石】Photograph 2016.5.28
【子妊石 産道】 Photograph 2016.5.28
【子妊石 下部の接地部分】 Photograph 2016.5.28
【達磨石】 Photograph 2016.5.28
この「子妊石」には、大女の子供産み落し伝承が残っている。その伝承は、以下のようなものである。
「昔々、高島の北の浜である北窓石に、采女という心が優しく力が強い大女と、猿の猿六という頭の良い小男が住んでいました。遥か沖に魚の群れが泳いでいるのに北窓石には回遊していません。そこで猿六は、当時陸続であった明地島との間に水路を掘って瀬戸を造ることにしました。二人は一生懸命働き、瀬戸を完成させると、魚の群れが押し寄せ、豊漁となりました。北窓石と明地島の間の瀬戸を「えんろくろ瀬戸」と呼ぶのは、「猿六苦労」が転訛したものです。
ある日、突然、魚が獲れなくなりました。原因を調べると、南の浜である本窓石に住む、魔亜羅という力の強い狡い大男が、岬の窓の端の小山にトンネルを開けて、陸地から海に行けるようにし、トンネルの外の大岩に乗って、回遊してくる魚を全部横取りしていました。
両者の間に漁業権の争いが起こりましたが、大岩を西の山の頂に乗せたものが権利を取るということで話がまとまりました。
大男の魔亜羅は、勝ったも同然と大喜びで、大岩を抱えて、急な坂を一気に駆け登りましたが、八合目付近で力尽きて、大岩は浜まで転げ落ちてしまいました。
今度は、采女の番です。大女の采女は身重の体でしたが、大岩を抱えると浜辺を南に回り、船堀の方から緩やかなコースを、一歩、一歩登って、とうとう山頂にたどり着きました。「やっこらしょ」と大岩を置いたとたん、ポロンと可愛い姫が生まれました。それが孫姫石です。処女石とも呼ばれます。
勝った采女達は、魔亜羅にこの大岩に上がってもらい魚の群れの見張番をしてもらいました。
時は移り、采女は精魂出し尽くして抱え上げた大岩の精となり、美しい女神石に化身して、高島の西の海人や女人を護りました。
心を改めた魔亜羅は、高島の東南の海辺に立って東を護り、その場所は金光の地名がつきました。」(河田善治郎・薮田徳造:「高島子妊石伝説」より平津意訳)
まず、この伝承には、岩を動かす力持ちの人が登場するが、後述する白石島でも同じような話を聞いた。岩を動かす技術を持った一族を象徴した表現ではないかと推測する。そして、この伝承には、水路を掘る、トンネルを掘る、大岩を山の上に据えるという土木工事の様子が描かれていることから、過去に高島で大きな工事が行われたことを伝えているのではないかと思える。
その伝承を信じると、采女が、海岸からこの山の上に運んで据えた大岩が「子妊石」ということになる。
「子妊石」の形状は、窪みが複雑に形成されていて異様である。風化か波の浸食か、と悩んでいると、武部正俊氏の調べでタフォニではないかということになった。タフォニとは、海水が岩に浸み込み乾燥によって塩が結晶化するときの膨張で岩が徐々に割れていく現象である。海外線のみならず潮風が当たる山の上でも起こるようである。
しかし、周りの岩石と比べてこの「子妊石」だけ、このタフォニ現象が激しいのはなぜであろうか、やはり、別の場所から運ばれてきたのであろうか。薮田氏の話によると、「子妊石」の頂上部と南の下部に牡蠣殻が付着していたそうである。そうなるとこの「子妊石」は海岸から標高50メートルの位置に人の手で持ち上げられたことになる。
「子妊石」のスリットは沖の「天目岩」を指しているそうである。この「天目岩」は、江戸時代(安政)に外国船を迎え撃つ台にするために破壊されてしまったそうであるが、薮田氏のスケッチ図によると、高さ36メートルの塔のような形状をしており、人工島の可能性もある。
また、伝承に出てくる東の海岸の金光には、「子妊石」と対となる男根石があったが石材利用のため破壊されてしまったそうである。
【子妊石の接地図】 案内看板より
【子妊石の上部の様子】 案内看板より
【天目岩のスケッチ】 案内看板より
「子妊石」の東に古い石割の跡が残っている。一般に、このような矢穴は中世に中国大陸から伝わったとされ、築城時代に盛んに用いられた石割り方法であるが、この矢穴は非常に古そうである。矢穴は古代エジプトでは既に用いられていた技術で、日本でも平城宮跡で確認されていることから中世以前に用いられていた可能性は非常に高い、研究の価値がある。
【子妊石近くの矢穴跡】 Photograph 2016.5.28
【子妊石近くの石割跡】 Photograph 2016.5.28
私達は、薮田氏が差し入れてくれたビールをいただきながら昼食をとった。イワクラの前で食べる弁当は格別である。
次に、「王久遺跡」に向った。一度山を降り、隣の山を登ると、「どんび石」と「萬古石」と名付けられたイワクラが現れた(北緯34度25分43.11秒、東経133度30分19.35秒)。
「どんび」とは、地元の方言で男根のことであり、イワクラの形状そのままに薮田氏が名付けたようだ。女陰である「萬古石」の割れ目から「どんび石」を眺める方向は、ぴったりと0度(真北)であり、人為的に配置されたと考えられる。薮田氏によると、もともと存在していた「萬古石」の東側の石に対して、西側の石と「どんび石」を運んできて構築しているということである。
【どんび石】 Photograph 2016.5.28
【萬古石】 Photograph 2016.5.28
次に、「岩戸石」と「踊り石」という巨石に向った。この2つの石の名前は、古くから伝わる名前である。「岩戸石」は、台座の上に立方体の巨石が重ねられている(北緯34度25分42.12秒、東経133度30分21.25秒)。案内していただいた中村美智恵氏は、この岩の上に寝転ぶと気持ちがよいので、ときどき訪れるそうである。
「踊り石」は、台石の上に乗せられた巨大な岩石で亀のようにも見える(北緯34度25分41.11秒、東経133度30分20.05秒)。この上で神にささげる踊りを踊ったと伝わる。
【岩戸石】 Photograph 2016.5.28
【踊り石】 Photograph 2016.5.28
最後に、「天津磐境(あまついわさか)」に向った。山の頂上部に造られたストーンサークルである(北緯34度25分40.21秒、東経133度30分22.06秒)。2段または3段の石組みで囲まれている中央部で祭祀を行なったのであろうか、西のイワクラや東のイワクラが見渡せる高島の中心であり、重要な場所であったと考えられる。
【天津磐境のストーンサークル】 Photograph 2016.5.28
【天津磐境の中心部】 Photograph 2016.5.28
【天津磐境の配置図】 薮田徳蔵,イワクラ学会報2号より
【天津磐境の配置図】 薮田徳蔵,イワクラ学会報2号より
【天津磐境の近くの亀石】 Photograph 2016.5.28
【天津磐境の近くの石】 Photograph 2016.5.28
船の時間の都合で、高島の滞在はここまでであった。薮田氏と再会を約束して別れた。
船に乗り込むと、乗客がこの島からこれだけの人が乗り込んでくるのは珍しいと呟いた言葉が耳に残った。この高島に人が訪れるのは希なことのようである。
高島の昔の姿は、禿山であったが、水が豊富な島であったそうだ。それが今では木々が生い茂り、ジャングルのようになっている。薮田氏達が伐採などの整備を行なっているが間に合わず、イワクラは緑の中に、どんどん沈んでいっている。
このままでは、誰もイワクラに近づけなくなり、忘れ去られてしまうのではないだろうか。早急な対策が必要である。
【高島の案内図 薮田徳蔵氏作】
本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった薮田徳蔵氏、中村美智恵氏、山口伸治氏に感謝いたします。
1薮田徳蔵:イワクラ(磐座)学会会報、「高島の磐座」(2004)、2号、6-10
2.柳原輝明:イワクラ(磐座)学会会報、「高島・白石島探訪記」(2004)、2号、11-14
3.渡辺豊和:イワクラ(磐座)学会会報、「巨石が語る常世への入口」(2004)、2号、15-17
4.高橋政和:イワクラ(磐座)学会会報、「高島白石島ツアー報告」(2005)、3号、7-23
5.河田善治郎、薮田徳蔵:高島子妊石伝説、高島観光協会(2002)
〇2016年8月1日発行 イワクラ(磐座)学会 会報37号に掲載
〇2016年8月28日 平津豊のホームページ ミステリースポットに掲載
〇2025年7月28日 平津豊のイワクラ研究サイトに転載
イワクラペディアでは個々のイワクラに関する最新情報を掲載しています。googleマップも付いていますので探索に便利です。
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