笠岡諸島の白石島のイワクラ


本論文・レポートの著作権は平津豊にあります。リンクおよびシェアは自由ですが、文章や画像を複製することは禁止します。最近、本ページの内容をそのままコピーして転載しているサイトを見かけますが、本ページの内容、テキスト、画像等の無断転載(複製して他の媒体に公開)を固く禁じます。特に、まとめサイト等への使用を厳禁いたします。また、出典を明記しての引用は許可していますが、以下の引用のルールに則って行ってください。それ以外は「盗用」「剽窃」となります。1.引用元が明示されていること/2.引用部分が明確に区別されていること/3.引用部分を修正していないこと/4.引用する必然性があること/5.分量的にも内容的にも、自分の著作部分が主で、引用部分が従であること


 

〇2016年8月28日に平津豊のミステリースポットに掲載していた論文を、2025年7月28日に平津豊のイワクラ研究サイトに転載。

「高島・白石島のイワクラ」を「笠岡諸島の高島の磐座」と「笠岡諸島の白石島の磐座」の2つに分けて掲載した。

 

 

はじめに

2016年5月28日、29日に1泊2日のイワクラツアーが行なわれた。

イワクラ学会が、岡山県笠岡市の高島・白石島を訪れるのは、11年ぶりになる。

イワクラ学会では、発足当時にこの高島・白石島に着目し、多くの論文が会報に残っている。これらの論文を参考にしながら、高島と白石島のイワクラについて考察する。

白石島のイワクラ

白石島に渡った私達を待っていてくれたのは、白石公民館長の天野正氏である。天野正氏は、11年前のイワクラ学会ツアーでも案内していただいた方で、この白石島のイワクラについて最も詳しい方である。

比丘尼岩

まず、港からすぐ東の山の中腹に見える巨石に登ることにした。38メートルの高さに明釣神社が鎮座している。もちろんこの神社は、50メートルの高さにある山の上の巨石を祀る社である。その巨石は、形が頭巾を被った尼僧の姿に似ている事から「比丘尼(びくに)岩」と名づけられ、それが「みくに」に転訛し、「皇国岩」という字が当てられたりもしている(北緯34度24分32.19秒、東経133度31分12.58秒)。高皇産霊(たかみむすび)尊の御神霊が宿るとされている。

【比丘尼岩 遠景】 Photograph 2016.5.28

 

【明釣神社】 Photograph 2016.5.28

 

「比丘尼岩」の山側は大きなV字の割れ目を形成している。その隙間から「明石小山」と呼ばれる島が見え、冬至になるとその方向に夕日が沈むという。私が計ったところ、割れ目の方向は255度で、割れ目の大きさを考慮すると、冬至の日の入りの太陽が入りそうである。そして、「明石小山」と「比丘尼岩」は、260度の方向に1.4キロメートル離れており、その中間点に「恵比寿神社」が鎮座している(北緯34度24分29.46秒、東経133度30分50.70秒)。意図を感じる配置である。

その「明石小山」は、頂上に丸石が配された小島で、昔その上部が光っていたという伝承もあり、海に浮かぶイワクラである(北緯34度24分25.16秒、東経133度30分18.63秒)。

 

【比丘尼岩】 Photograph 2016.5.28

 

【比丘尼岩の割れ目】 Photograph 2016.5.28

 

【明石小山】 Photograph 2016.5.28

 

【恵比寿神社】 Photograph 2016.5.28

 

日計石の発見

この「比丘尼岩」を降りる途中で、早くも大きな発見があった。不思議な形をした石組を見つけたのである。石と石の間に奇怪な形をした突起物があり、そこに上部の菱形の隙間から光が差し込んでいる。

日時計ではないのか!!

 

みんなが色めき立ち、学会員は各々のスタイルで調べだした。どうも周りの石面が2至2分を示しているようである。イワクラ学会として、この石組を「日計(ひばかり)石」と名付けた(北緯34度24分31.79秒、東経133度31分11.99秒)。

 

この日は、後のスケジュールもあるので、これ以上の調査をあきらめ山を降りた。ところが、その夜、岡本静雄氏は、午前3時に起きだして、この「日計石」に朝日がどのように入るかを観察しに行かれた。

そして、観察に邪魔となる「日計石」の周りの小枝を伐採して帰ってきたのである。

なんとも、イワクラ学会らしいエピソードである。私たちは次の日に、再び、この「日計石」を訪れ、樹木から切り離されてあらわになった石組みの各面が、夏至、春分・秋分、冬至の方向を指していることを確認した。そして、中心部分にある突起物と太陽の関係については、定点観測を行なう必要があるので、天野氏にお願いした。

【日計石 南西から撮影】 Photograph 2016.5.28

 

【日計石 北西から撮影】 Photograph 2016.5.28

 

 【日計石 北東から撮影】 Photograph 2016.5.28

 

【日計石 中心部の不思議な突起】 Photograph 2016.5.28

 

【日計石 上部の菱形穴】 Photograph 2016.5.28

 

【日計石 上部 方位図】 Photograph 2016.5.28

 

白石島八十八ケ所写し霊場

「比丘尼岩」の後、港の周りのイワクラと思われる霊場を巡った。この白石島には、四国八十八ケ所の写し霊場がある。天野氏の説明によると、各々の写し霊場を島の各家が守っているということである。この港の周りには多くの霊場が造られている。これらの大部分は、変わった形状の岩石を利用した霊場であり、そのいくつかはイワクラを利用したものではないかと考えられる。

【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

 

【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

 

【海岸の祠】 Photograph 2016.5.28

 

【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

 

【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

 

【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

 

沖の白石

この辺りの岩石は、滑らかな曲線で連なった穴が大きく開いており、異様な形をしている。風化にしては曲率がきつすぎるし、波の侵食にしては、海岸線よりも25メートルも高い位置にあり、縄文海進を考慮しても高すぎる。これは、前述したように、タフォニという現象で説明できるようである。

この奇怪な岩々を時間が許すがきり見学した。

 

この見学の途中、岡本静雄氏が、船から面白い島が見えたということで、大石寿郎氏と供に、防波堤から沖の島を観察すると、ごつごつした岩の上に櫓が組んであり、実に不思議である。

地元の漁師に聞くと、昔は灯台(1938年設置)があったが、船舶がぶつかって壊れたため、今は櫓を組んで灯台の替わりをしているとのことであった。後で天野氏に聞くと、この島が700メートル沖に浮かぶ「沖の白石」であるとのこと(北緯34度24分58.96秒、東経133度30分50.61秒)。懇親会で天野氏から島の写真を見せてもらうと、巨大な岩が積みあがった島で、巨石の一つにはハート型の中に漢詩が刻まれている(1818年に刻まれたが、今ははっきり見えない)。この島もまた航海のシーマークとしてのイワクラであろう。

【沖の白石】 Photograph 2016.5.28

 

この後、お多福旅館で懇親会が開かれ、ツアー一行は、海の幸に舌鼓を打った。次の日に雨が降らないことを祈って、就寝したのだが、残念ながら朝から雨であった。

もちろん、雨だろうが嵐だろうがイワクラ学会のツアーは決行される。雨支度を済ませて、旅館の裏から山に登った。

波止岩

「小波止(はと)岩」を通過して、いっきに400メートルほどの距離を登って、「波止(はと)岩」に到達した(北緯34度24分15.77秒、東経133度30分49.17秒)。標高64メートルの尾根の途中に突き出た見晴らしの良い巨石である。「波止」とは、海に突きだした構造物、つまり「なみどめ」のことであり、縄文海進で海面が今より高く、海が島の奥深くに入り込んでいた時代に、波よけの意味を込めて付けられた名前なのかもしれない。

この巨石には、岩上に登れるように足かがりの穴が穿ってある。岩の上面に登ると、多数の盃状穴が造られていた。

盃状穴は、石を少しずつ削って窪みを作ったもので、再生や不滅の信仰として世界中で見られる。日本では縄文時代からイワクラに彫られていたものが、古墳時代に棺に彫られるようになり、昭和初期まで神社の手水石や灯篭等に彫る事が続いていた。子孫繁栄や死者蘇生を願ったものと考えられている。

古代人は、この岩の上で、どのような祈りを込めて、この穴を彫ったのだろうか。しばらく、目の前に広がる景色を見ながら古代に思いを馳せた。

また、この「波止岩」の南側に小さな2つの石が置いてあるが、この配置が家島諸島の西島にある「コウナイの石」に似ている。このようにイワクラを探索していると、そこに規則性や類似性が見て取れる。

 

【波止岩】 Photograph 2016.5.29

 

【波止岩の盃状穴】 Photograph 2016.5.29

 

その「波止岩」から30メートルの位置に、台座の上に乗った亀の形をした石があった(北緯34度24分14.96秒、東経133度30分48.48秒)。この亀石の向きは85度(東)で、山の上から朝の太陽を見つめていた。

 

【尾根の亀石】 Photograph 2016.5.29

 

この後、尾根を200メートル歩いて、標高96メートルの中峰の休憩所に着く(北緯34度24分09.75秒、東経133度30分42.22秒)。この休憩所の周りの岩も意味ありげである。祭壇のような石組み、浅い窪みが彫られた石など、見所が数多くあった。

 

【中峰の休憩所の祭壇石】 Photograph 2016.5.29

 

【中峰の休憩所の石】 Photograph 2016.5.29

 

少し休憩したあと、250メートル先の「魚見台」へ向かった。天野氏によると、このような山道が整備されているのは、この「魚見台」に登るためだそうだ。魚群探知機が漁船に搭載されるまでは、この魚見台から海の魚群を見て、手旗で漁船に知らせていたそうである。「魚見台」は標高150メートルの高山(応神山)の頂上部にあり海が見渡せる(北緯34度24分07.89秒、東経133度30分32.97秒)。そして、その場所は、岩が海岸から積みあがり、盃状穴もあることから、イワクラと考えられる。

【魚見台】 Photograph 2016.5.29

 

 

【魚見台】 Photograph 2016.5.29

 

 

【魚見台の盃状穴】 Photograph 2016.5.29

 

赤不動のイワクラ

次に「大玉石」に向うが、その前にルートを外れて、「赤不動のイワクラ」に立ち寄ることにした。

「魚見台」から尾根道を200メートルほど歩くとアプライトおよびペグマタイトの岩脈が露出している場所に着いた。ここから西の谷に向って35メートルの高さを下る。距離的には100メートル程ではあるが、道はなく天野氏の案内がなければ見つからなかったであろう(北緯34度24分02.06秒、東経133度30分33.56秒)。

 

「赤不動のイワクラ」は、高さ8メートル以上もある立石に十字の割れ目があり、その右下の部分がずれて隙間が空いている。隙間の中に人が入ることができ、その隙間は上の岩石が屋根となり、雨風を防げる場所となっている。ペグマタイトの岩脈もあり水晶が採れたようである。古代人にとって特別な場所だったと考えられる。

上の岩石とずれた岩石の間に赤不動が祀られている。不思議なことに隙間の奥から参拝する形になっている。

この巨石の前は西に開けた海が見下ろせる。岩の中から見る夕日は非常に美しいことであろう。

【赤不動のイワクラの上部】 Photograph 2016.5.29

 

【赤不動のイワクラ】 Photograph 2016.5.29

 

【赤不動のイワクラ 隙間の中から】 Photograph 2016.5.29

 

この場所で、イワクラ学会は、またまた新発見をした。岩に巨大な窪みが彫られていたのである。何度もここに来ている天野氏も気がつかなかったそうである。直径約15センチメートルの真円であり、人が造ったものである。

同じようなものを岡山県牛窓の八間岩で見たことがあるが、それよりも形状の精度が高い。あまりに整っているので、近年あけられた可能性も疑ってしまうほどである。巨大な盃状穴であろうか、目的は不明である。

イワクラの前の石にもきれいな盃状穴が3つ彫られていた。昔の人が岩石に対して何か働きかけようとした、そのような意志がひしひしと伝わってきた。

古代人がこの立石を割って岩をずらした可能性もあるのではないだろうか。

【赤不動のイワクラ 大きな盃状穴】 Photograph 2016.5.29

 

【赤不動のイワクラの前の盃状穴】 Photograph 2016.5.29

 

大玉岩

尾根道に戻って大玉岩に向った。100メートル程歩くと、大玉岩が現れた(北緯34度24分01.51秒、東経133度30分41.06秒)。「王玉岩」とも呼ばれるこの大玉岩は、島の各所からよく見えることから、自分の位置を確認するためのランドマークとしてのイワクラであったと考えられる。この岩の上にも登ることができ、絶景が楽しめる。

11年前のイワクラ学会ツアーの報告(会報3号)では、この大玉岩が笠岡の青佐山を向いているのではないかと指摘している。今回は、雨模様の天気であったためこの青佐山は私達の目に入らなかったが、青佐山はきれいな三角形をした目立つ山であるので、この関係には意味があるのかもしれない。

 

【大玉岩】 Photograph 2016.5.29

 

大玉岩から150メートル歩くと「なべかろう」の下に出た。漢字で書くと「鍋下爐」であり、この岩の上で神に捧げる鳥獣を兵士達が食する祭事が行なわれていたとのことである。

さらに150メートル歩いて分岐点を南に少し行くと、四角い石の上に三角の石を重ねた小ぶりなイワクラがある。笠越という場所に立つ鴨別(かもわけ)命の鎮懐石(ちんかいせき)である(北緯34度23分53.64秒、東経133度30分46.44秒)。鴨別命は、『日本書紀』では御友別(みともわけ)の弟、『日本三代実録』では、吉備武彦(きびのたけひこ)命の三男とされており、波区芸県(今の笠岡)を支配した笠臣の祖であることから名付けられたのであろう。一方、鎮懐石は、神功皇后が出産を抑えるのに用いた石の名前であるが、なぜこの名前で呼ばれているのかは不明である。

 

【なべかろう】 Photograph 2016.5.29

 

 

【鴨別命の鎮懐石】 Photograph 2016.5.29

 

ここから南には、立石山が見える。立石山には立磐神社と御神体の立岩があったが、明治時代に石工に打ち落とされたそうだ。巨大な男根石であったようだが残念なことである。その石工は神罰を受けて亡くなったという。

さらに、この立石山の向こうに平田のイワクラが見える。

鬼ケ城と鎧岩

雨がまた降りだしてきた、今回は、立石山には向わずに、250メートル先の鬼ケ城に向った。

11年前に、渡辺豊和氏と柳原輝明氏がピラミッドではないかと指摘した山である。

山の形が自然に形成されとは思えないということである。

南から見ると、頂上部に岩石が無造作に集積された様子であるが、近づくと一つ一つの岩が特徴のある形をしていて面白い。

【鬼ケ城の頂上部 南面】 Photograph 2016.5.29

 

【鬼ケ城の頂上部】 Photograph 2016.5.29

 

雨が激しくなってきたが、ここでやっとお昼弁当を食べた。山の頂上で傘をさしながらの昼食は、私も初めての体験であった。

雨のため、頂上での調査は、そこそこにして、北側へまわった。

そこには、天然記念物の「鎧岩」がある(北緯34度23分59.88秒、東経133度30分54.02秒)。

「鎧岩」は、アプライトおよびペグマタイトの岩脈が頂上の岩面を覆っているもので、鎧の直垂に似ていることから「鎧岩」と呼ばれている。

アプライトおよびペグマタイトの岩脈が急な斜面と平行に存在し、その外側だけ割れて落ちて、このように残ったというのであるが、そのようなことが自然に起るのであろうか。うまくそのような岩脈があったとしても、その外側を人が剥がし落としたと考える方が考えやすい。

もちろん、自然に起りにくいので天然記念物なのだが、これは、自ら苦しい説明だと認めているようなものである。

また渡辺豊和氏は、恐るべき技術で接着された葺石ではないか(会報2号)と推論されているが、ローマ時代には現在よりも強固なコンクリート製の建物が建てられ、古代エジプト時代にはモルタルが存在していたことから、日本の縄文時代にセメントがあったとしても何ら不思議ではない。ピラミッド山を白い化粧タイルが覆い太陽に照らされて光っていたのではないだろうか。

 

【鎧岩】 Photograph 2016.5.29

 

【鎧岩】 Photograph 2016.5.29

 

【鎧岩】 Photograph 2016.5.29

 

鬼ケ城の北側は、南側と全く異なっていて急斜面である。下山する道では、まるで空中を歩いているような気分になった。

 

【鬼ケ城  北東面】 Photograph 2016.5.29

 

中腹まで下ると岩窟に着いた(北緯34度24分01.27秒、東経133度30分53.74秒)。天野氏によると、この岩窟は明治時代には、這いながら山の裏側へ抜けられたという、この山の裏側までの距離は少なくとも100メートル以上はあり、なんとも信じられない話である。ピラミッドの機能に関係があったのだろうか。

また、岩窟の入り口には、神明大権現の鳥居が作られていて、戦後の頃までは老婆がここに籠り、産後に乳が出ない人に対して乳揉みを行なっていたそうである。

【神明大権現の岩窟】 Photograph 2016.5.29

 

さらに下ると飛竜神社に着いた(北緯34度24分02.10秒、東経133度30分53.22秒)。この神社の前の岩には、獣か鳥の顔が線刻されているかもしれない。

【飛竜神社の線刻】 Photograph 2016.5.29

 

真名井と磐鏡

次に開龍寺へ向った。

「真名井」と名付けられた場所は、巨石の下の空間からきれいな水が湧きだしている(北緯34度24分10.12秒、東経133度30分47.51秒)。この島に豊富な真水があり、古代から数多くの住人を抱えることができる島であったことがわかる。また、この巨石の底面は女陰の形になっているようだ。

 

【真名井】 Photograph 2016.5.29

 

この「真名井」の水は、「磐鏡」を御神体とする磐鏡神社に献上されたと伝わるが、磐鏡神社は今はなく、その「磐鏡」が何処にあるのか不明となっていた。

手かがりは1943年に撮影された写真のみで、島の人も探していたが見つけられなかった。1943年の写真の「磐鏡」は光を反射しており、鏡石であることがわかる。

それが11年前の2005年2月に行なわれたイワクラ学会の白石島ツアーで、60年ぶりに発見されたのである。イワクラ学会の面目躍如といったところである。

その「磐鏡」は、真っ平らな面を持つ、まさに鏡石である(北緯34度24分10.13秒、東経133度30分48.67秒)。

【1943年に撮影された磐鏡】 Photograph 2016.5.29

 

【磐鏡】 Photograph 2016.5.29

 

開龍寺の奥の院

「開龍寺の奥の院」は、806年に空海が唐から帰国するときに白石島に立ち寄り、巨岩の下で37日間の修行を行った場所と伝えられている(北緯34度24分09.91秒、東経133度30分46.24秒)。

 『小田郡誌』(昭和16年 小田郡教育委員会)には、以下のように書かれている。

「神島外村白石島にあり。僧空海求法の為入唐し、眞言密教の蘊奥を極め大同元年帰朝の際舟掛りせしに、此島の山水明媚にして幽邃閑雅なるは、密数の弘通に相應の霊地なりとし、三七日の間巨厳の下にて、大満虚空蔵菩薩の法を修め、自性清浄の大曼荼羅と、自然に荘厳せる不二の霊地なりとて、興教済生の記念の為、自己の像を彫刻し、四方上下を結界して安置す。後源平合戦の時、平氏の残黨當島に逃れ来りしを、源氏の兵追躡し来り、火を放ちて焼き殺せり。依りて其追福の為空海の靈跡に一宇を建立し、弘法山慈眩寺と命名せり。これ當寺の濫觴なり。後寛永二年領主福山城主水野美作守勝慶當島を巡見の途次参詣せしに、光明赫灼として眼を射れり。勝慶歓喜して堂宇を再建して祈願所となし、空海自作の像は秘佛とし、別に祕鍵大師像を安置して開帳佛とす。

盖し祕鍵大師は、嵯峨天皇の勅を受けて厄病を退散せし像なるを以てなり。かくて教海山開龍寺と改稱す。寛保三年神島四國八十八ヶ所を開くや、當寺を以て其の奥の院となし以て今日に至る。眞言宗に属し笠岡遍照寺の末寺たり。」

もともとは、岩屋であったところに、慈眩寺、開龍寺と変遷してきた。現在の建物は、岩にピッタリと収まっているが、この変遷の中で、建物の背後の岩がどのように削られてきたかは、良くわからない。

建物の奥まったところには、水が湧き出しているが、窮屈な思いをしないと汲めない。やはり、ここの建物を取り外した状態が本来の正しい姿であると思われる。そうなると原初の状態はどのようなものだったのか、堂宇を建てるときに、大きく岩石に手を加えていないと仮定すると、巨大な岩が水平に突き出た岩屋があったことになり、自然に形成したとは考えにくい。古代人がこの聖地に岩屋を造っていた可能性も考えられる。

また、この岩屋の開口部が向いている方向には巨大なイワクラが見えるので、そのイワクラの遥拝所だったのではないだろうか、そして、空海は、その異様な光景に惹かれたのではないだろうか。

 

【開龍寺の奥の院】 Photograph 2016.5.29

 

【開龍寺の奥の院 東側】 Photograph 2016.5.29

 

【開龍寺の奥の院 西側】 Photograph 2016.5.29

 

直ぐ隣に、岩盤に人頭大の窪みがあり、頭を入れて祈願すると願いが叶うという「不動岩」があるが、これは赤不動のイワクラで見つけた巨大な盃状穴と同じものかもしれない(北緯34度24分10.37秒、東経133度30分47.18秒)。また、市郎兵衛の力石もあるが、とても人が持ち上げることのできる大きさではなく不思議な伝承である。高島の大女伝説と同じように岩石を動かす技術を持った一族がいたことを意味しているのかもしれない。

【不動岩】 Photograph 2016.5.29

 

このあと、開龍寺の境内にあるイワクラと思われる場所を巡った。

「筆不動」は、お不動様の梵字が書かれており、目を閉じて字の上をなぞると勉強や書道が上達するといわれている岩石である。(北緯34度24分14.18秒、東経133度30分50.10秒)、タフォニ現象による窪みが、不動明王の梵字名「カーン」に似ていることから作られた逸話であろう。

【筆不動】 Photograph 2016.5.29

 

「荒神社」は、大きな岩の前に置かれた小さな祠で、もともとは、背後の大岩を拝する場所であったと考えられる(北緯34度24分14.45秒、東経133度30分51.44秒)。

【荒神社】 Photograph 2016.5.29

 

「永護神社」は、源平合戦の戦死者を祀る神社であるが、雨の日には、この岩に武士の姿が浮かぶと伝わる(北緯34度24分14.18秒、東経133度30分51.89秒)。

【永護神社】 Photograph 2016.5.29

 

開龍寺の参道には、鳥居が立っている。開龍寺は、神仏習合が未だ残っている場所で、境内には、荒神社や永護神社だけでなく、四社明神社という大きな神社も鎮座している。この鳥居の横に、平たい石が置いてあるが、船を模った船石ではないだろうか、気になる石である(北緯34度24分13.53秒、東経133度30分52.33秒)。

【船石】 Photograph 2016.5.29

 

この開龍寺の参道は、奥の院の岩屋に至る。その岩屋の周りには、泉や鏡石があり、島を見渡せる中峰の展望台までわずか100メートルの距離である。

夏至の日の出が差し込むこの谷奥は、白石島において重要な祭祀場であったと考えられる。

 

私達一行は、帰りの船に乗るために港に向った。

非常にお世話になった天野氏に別れを告げて、船に乗り込んだ。

あいにくの雨ではあったが、非常に数多くのイワクラを見ることができ、古代のエッセンスが凝縮していたツアーであった。

 

おわりに

白石島の島民は、イワクラに石仏を置いて自分の家の守り仏とした。

これには、空海が開いた開龍寺の影響が大きいだろう。しかし、島民がイワクラに興味を持ち、岩に思いを寄せていることのあらわれでもある。

またそれは、古代のこの島にイワクラを造った石工集団がいた証拠ではないだろうか。

白石島には、石切り場もあり、今でも採石が行なわれている。採れる花崗岩は、ほんのりピンクがかった白色の岩石で「白石島みかげ」として有名である。

この島の石工の人達は、古代にイワクラを造っていた石工集団の技術を受け継いだ末裔なのかもしれない。

 

(イワクラハンター 平津豊)

謝辞

本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった天野正氏に感謝いたします。

参考文献

 

1薮田徳蔵:イワクラ(磐座)学会会報、「高島の磐座」(2004)、2号、6-10

2.柳原輝明:イワクラ(磐座)学会会報、「高島・白石島探訪記」(2004)、2号、11-14

3.渡辺豊和:イワクラ(磐座)学会会報、「巨石が語る常世への入口」(2004)、2号、15-17

4.高橋政和:イワクラ(磐座)学会会報、「高島白石島ツアー報告」(2005)、3号、7-23

5.河田善治郎、薮田徳蔵:高島子妊石伝説、高島観光協会(2002)


発表履歴

〇2016年8月1日発行 イワクラ(磐座)学会 会報37号に掲載

〇2016年8月28日  平津豊のホームページ ミステリースポットに掲載

〇2025年7月28日 平津豊のイワクラ研究サイトに転載


IWAKURAPEDIA(関連するイワクラの個別情報)

イワクラペディアでは個々のイワクラに関する最新情報を掲載しています。googleマップも付いていますので探索に便利です。


#イワクラ #磐座 #巨石 #megalith #古代祭祀 #神社 #神道 #巨石文明 #古代文明 #平津豊 #イワクラハンター #岡山県 #笠岡市 #白石 #比丘尼岩 #明石小山 #恵比寿神社 #八十八ヶ所霊場 #沖の白石 #波止岩 #魚見台 #赤不動のイワクラ #大玉岩 #開龍寺 #不動岩 #筆不動 #真名井 #磐鏡